今まで紹介した三淵嘉子関連本の中でも内容は濃く、三淵嘉子に関してある程度の知っている状態で読んだ方が読みやすいと思います。
初めに読みやすい難易度としてオススメなのは以下の1冊、下の記事で紹介しています。
さて、本書は次のような方にオススメの1冊です。
- 三淵嘉子に関して、もっと詳しく知りたい。
- 当時(昭和初期)はどんな時代・価値観だったか?
- 三淵嘉子や家族、周囲を取り巻く環境はどのようなものだったか?
他の関連本と異なると感じたのは、三淵嘉子本人の資料に留まらず、当時の時代背景や価値観、置かれた環境がどのようなものだったかに触れ、嘉子にどういう影響を与えたのか検証しています。
三淵嘉子に関してだけ知りたい場合は、少々脱線しているように感じるかもしれませんが、ある程度の前提知識があり、更に理解を深めたい方にとっては面白い1冊だと思います。
例えば初めの第1章では、嘉子の生誕地シンガポールの日本人社会が当時どのようなものであったか?
両親の価値観が子供への教育方針にどのように影響したのか?
といった著者なりの分析がなされています。
中でも特に面白かった分析は、弁護士になったばかりの頃、(本人曰く開店休業状態で)実務経験をあまり積んでいなかった時の嘉子の状態を、同期の女性弁護士2人(中田正子、久米愛)の仕事ぶりなどと比較して検証していた部分です。
他の書籍では、当時1940年(昭和15年)頃は徐々に戦時色が強まり、対米戦は不可避となっていった時代。非常時に個人の権利を主張している場合ではないという風潮が生まれ、弁護士の案件も減っていたことが理由の一つに挙げられています。もちろん、理由の一つとしては間違っていないと思います。
ですが、同期の女性弁護士2人は戦時下でも忙しかったことに言及し、当時の嘉子は仕事へのモチベーションが低下していたからではないか?と分析し、理由の一つに挙げています。
同時期に中田正子は、事務所や先輩弁護士から仕事を分けて貰って仕事をし、雑誌『主婦の友』で法律相談を担当するようになりました。毎週100通以上も届き、1941年12月の真珠湾攻撃で戦況が悪化し厳しい時代になっても相談の手紙は減らなかったといいます。
久米愛も子供が生まれていましたが、子守や家事を住み込みのお手伝いさんに任せて、ほぼ毎日弁護士事務所に詰めていた程、忙しかったこと。また、刑事事件を担当して東京地方裁判所の法廷に立ち、日本で初めて女性が法廷に立ったことが新聞で取り上げられたのもこの頃です。
嘉子本人も戦後に夫が戦病死した後に、
それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持から真剣に生きるための職業を考えたとき、私は弁護士より裁判官になりたいと思った。 三淵嘉子『私の歩んだ裁判官の道』より
と語っており、戦後に家族を失って自分が働く必要性を感じたことで覚醒したことが伺えます。
法律を学んだきっかけも父に職業婦人になること、その為に法律を学んではどうかと勧められてのことでした。
同期の2人ほど仕事に対するモチベーションが高くはなかった。という見解は当たっているのではと感じます。
当初は法律を仕事にすることに積極的でなかった嘉子ですが、戦後に裁判官の道を歩んだ後の活躍は目覚ましく、「家庭裁判所の育ての親」と言われるまでになりました。
戦争で裕福な実家も大切な家族も相次いで失ってしまったけれど、本人が学んだことが仕事に繋がり、残された子供や弟達家族と生きていく力になった印象を受けます。
財産や人は奪われてしまうことはあっても、学んだことや心は奪われない。
教育にお金をかける意味というのは、そういった自分自身を守る(奪われない)財産を持つことに繋がるのかもしれないと感じた内容でした。
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